「扶氏医戒之略」は、何を今更というぐらい、これまで何人もの先達によって訳されていますが、すばらしいものですので、自戒の意味も込め、今の私なりの口語体に直してみることにしました。
原書は、ドイツの医者フーフェランド氏(=扶氏)が1836年に著した「医学必携」を、幕末の蘭学医・緒方洪庵先生が和訳され、最後の部分を「扶氏医戒之略」の名で抄訳したものと伝えられています。
緒方洪庵先生の和訳は文語体ですので、先述の通り、各時代の著名人によって口語体に直されたものがたくさん世に出ています。
以下にご紹介するのは、あくまでも不肖小野村が現在の立ち位置に基づいて現代語に直したものであり、無知無能をさらけ出すようではありますが、令和3年初頭にあたっての、愚かな医者の戯言としてお読みいただければと思います。
其の一
医者が(人間でもあるが)医者の務めとして医業を行うのであれば、それは生活のためではなく、愚かな「医者と名乗っているだけの自分」のところへ、同じ人間が患者として、他に頼るすべがなく仕方なくやって来たのだと、心底わからなければならない。
医業とは利他のために行うのであり、利己のために行うものではない。それを本当にわからなければ、中途半端になり、皆に迷惑をかけるだけである。
楽な方向に流されず、巧名を得ることなど微塵も思わず、ただひたすらに利他のために尽くすのが本来の医業の道である。分別をわきまえ、ただひたすらに病に苦しむ人々の病苦を治し、その苦境を脱する手助けをすること以外にはそれ以上でも以下でもない。
其の二
ひとたび患者やその家族と向き合ったならば、一心不乱に患者の利益になることに心を尽くすべきである。患者の社会的背景などは考慮するにしても、貧富の別なく、全く同様に、依怙贔屓などはせずに、ひたすらに患者に尽くすべきである。
現代は貧富の差が広がる格差社会であるが、その格差を利用してたまたま富を手に入れた患者と、格差社会の不合理に苦しむ患者の魂の叫びとその心に現れるありがたいという気持ちのこもった涙を見るにつけ、後者の言葉の無い涙に心が動かされないはずがないであろうし、あってはならない。
其の三
治療を行うに当たっては患者のことを必ず中心に考えて行動するべきである。患者がいつも中心であり、患者の同意なしに変わった治療や治験などを行うのはもっての他である。
人間は生まれ育ちによっていろいろな先入観や風習が身についてしまうものであるが、こと医業に当たっては、自分の意見に固執したり、配慮を欠いた治療を無秩序に行うのではなく、極めて慎重に、今できる自分の最大限の努力を惜しまずに患者をよく診たてて診療を行うべきである。
其の四
医者は医学以外の世事にもできるだけ精通していなくてはならない。それだけでも普段の倍以上は勉強をするべきである。
現代は昔と違い、インターネットが発達し情報を得やすくなったので、勉強しようと思えばいくらでもできるはずである。しかし、インターネットが発達したおかげで得られるものも多いが、失うものも多いと気づくべきである。
インターネットが発達したということは、世の中の流行やすたりも早いことを意味する。その流れにのって変な流行に流されたり、おかしな格好をしたりして全くエビデンス(根拠)のない治療に手を出しても、一時的な話題を得るだけで本物にはなれないので、慎重に行動するべきである。
時にインターネットで得た怪しげな治療法を信じて、それを行うように迫ってくる患者がいるかもしれないが、それは患者が悪いのではなく、そのように仕向けたサイトが悪いのである。そのことを、時間をかけても患者に自らわかるようにしむけ、正しい道に導いてあげることも重要な役割である。
其の五
日々、診療の後には、その日に診察を行った患者さんの診察シーンを振り返り、反省しつつ、可能な限り日記に診察状況を書き留めるべきである。
紹介状(診療情報提供書)のやりとりを行った患者については、特に自分の考えとどこが違っていたのか、もし仮に同じような患者さんが来たら何を真っ先に行うべきであったかを常に反芻し日記にメモする習慣を身に着けるべきである。
忙しくても、紹介した病院名、患者のイニシャル、病名の略語、処方薬の略語などを単純にでもいいので書き留めておくと、のちに振り返った時に大変役にたつものである。
もしそれが積もり積もって、いつの間にか書物のようになっていれば自分や同業の医師ばかりでなく、これから来るかもしれない患者さんにとって計り知れない恩恵となるであろう。
其の六
患家に出向くときは、細心の注意を払い、病気のために医療施設に来ることができない事情を汲んで考慮すべきである。決して、「来てやった」などと恩着せがましい態度はとるべきではない。また、患者の負担を軽くするため、できるだけの努力を惜しんではならない。
其の七
たとえ難病の患者であったとしても病気による苦しみや悩みを聞いて、その命を救いたいと思うことは医者の務めである。
今は、インフォームドコンセントが行き渡り、患者自身も自分の病名を知ることが多くなったが、最後まであきらめずに患者の苦しみを和らげる努力を続けることが医業を行う者のつとめである。
ほんのわずかの言葉遣いや態度によって患者は傷つきやすいことに配慮しなくてはならない。
もとより、この宇宙も最初は質量を持たなかった量子真空の状態であった。そして何もない量子真空にゆらぎが生じて、その後急激に膨張(インフレーション)が起き、ビッグバンという大爆発が起こってこの宇宙が誕生した(ゼロ・ポイント・フィールド理論)という仮説がある。(注:田坂広志著:「運気を磨く」光文社新書より引用)
何もない「真空」から膨大なエネルギーによって生じた世界であり「色即是空、空即是色」と言い表わされている。このことを患者にわかりやすく説明し、安心させてあげるのも医業を行う者の務めである。
其の八
患者の治療費にも細心の心を配らなくてはならない。最近は健康保険を使っても数百万円もする治療薬がざらにある。しかし、少子高齢化の中で、いったいどれだけの人がその負担に耐えられるであろうか?
もし命を取り留めたとしても生活の糧を失ってしまっては元も子もないではないか。高額療養費制度などを利用して、貧富の差なく患者に医療情報を提供するのも医療者の務めである。
其の九
この世において医業を行うならば、人々の信頼を損なってはならない。時には患者の診られたくない傷跡や、裸身、秘密などに接することがあるものである。そのことを自分一人の心にひた隠し、誠実で温厚でありながら、饒舌ではなく、沈黙を守るように心掛けなければならない。
酒はせいぜい勧められても辞退し、どうしてもというときには、コップに口をつけるふりをして、飲酒を慎むべきである。好色や賭博などは言うまでもないことである。厳に慎まなければならない。
其の十
時の流れるのは早いもので、ある時はその時代の流行の治療法を知らないことがあるかもしれない。しかし、それは誰にでも起きうることで、自分もいずれそのようになる時が来るかもしれない。
だから、自分より年配の医師や同業者には敬いと尊敬の心を持って接するように心がけるべきである。決して安易に短所を口にするべきではない。
口は災いの元である。また、もし、自分より若手の医師が親切に物事を教えてくれたときは、すでにそのことを知っていたとしても、初めて聞いた態度を見せ、相手に尊敬と敬意を持った態度で接するべきである。
また、医業にはその師事する流儀によって多くの違いがあるのだから、むやみに他の流儀を批判してはならない。患者から意見を求められたときは、前医の治療をできるだけ持続するように話すべきで、それ以上を求められたなら固く辞退するべきである。
其の十一
患者には今までの成育歴によって嗜好や食事の好みがあるのは、仕方がないことである。
前述の「口は禍の元」とは言葉だけではなく、食養生にも通ずる言葉で、その好みによって、現代問題になっているメタボリックシンドロームや高血圧、COPD(肺気腫)、喘息、脳卒中、糖尿病、アルコール性肝炎、脂肪肝、肥満、一部の皮膚疾患などの現代病に通ずる場合があるかもしれない。
しかし、それは患者が悪いのではなく、成育していく環境の中で与えられた物が影響している場合が多いことを勘案し、患者を責めるのではなく、どこが誤りかを患者に気づかせる努力をするべきである。
其の十二
時には初見の患者から、主治医をこっそりと変えたいという相談があるかもしれない。しかし、見境なくその話に乗ってはならない。
時に自分の評判を落とし、さらに患者の命を危険にさらすことがあるかもしれないからである。まずは、最初の主治医に話を伺うなどして、筋道をきちんとたてておくべきである。
もし、以前の主治医が本当に誤った治療をしているかもしれないと思ったときは、信頼のおける同業者2〜3名の医師と相談の上、最善の道を探るべきである。特に緊急を要するときや危険が伴う時は躊躇せずに、周囲に迷惑がかからぬように最善の道を探るべきである。
上記の12条は、緒方洪庵先生の「扶氏(フーフェランド氏)経験遺訓」の巻末に書かれた医戒の言葉を、私なりに現代風に要約したものです。
また、第七条に引用させていただきましたのは、日本が生んだ世界の量子力学会の巨人、田坂広志先生の著書『運気を磨く 〜 心を浄化する三つの技法 〜』からの文章です。 この本のすごいところは、今まで、だれも科学者が口にしてこなかった「神」「仏」「運」「不運」や「志」「宇宙と人間がどのようにつながっているのか」を、本当の科学者の視点からとらえているところだと思います。ご興味のある方は、是非1度、読んでみてください。
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